
北海道・鹿追町の発祥の地を訪ねて。駅逓制度と開拓の歴史、クテクウシ駅逓の再現施設や記念碑を通して、鹿追の原点に触れる旅。
── 忘れられた道、再現された記憶
2025年7月24日13時40分。帯広の拠点を後にし、車は北へと向かった。
この日の帯広の予想最高気温は、なんと40度。すでに午後の日差しは容赦なく、車内の熱気はサウナのように立ちこめていた。ハンドルに触れる手に汗がにじみ、窓を開けても逃げ場のない熱風が吹き込んでくる。
そんな中、14時ちょうどに十勝川をまたぐ平原大橋を通過する。帯広と音更を何度も往復した記憶が、この橋にしみ込んでいるように感じた。
さらに進み、14時40分には鹿追新得線にかかる「鹿追橋」へと足を止める。橋のすぐそばには然別川の親水施設の案内板があり、その周囲には桜並木が連なっていた。春には、遊歩道が淡いピンクのトンネルになるのだろう。今は青々とした葉が風に揺れているだけだが、その姿にも静かな気配が宿っていた。
15時。少し迷いながらも、目的地である鹿追発症に地「クックガルデン」にたどり着く。




そこは、これまで何度も気になりながらも通り過ぎてきた場所だった。道の駅へ向かう道がつい右に流れてしまうため、いつも遠回りになりがちだったのだ。だが今日は違った。初めて、その足を旧駅逓の復元建物の前へと運ぶことができた。


建物の壁には「旧駅逓の再現」と題されたパネルが掲げられており、古い木造駅舎の写真が添えられている。大正時代、この地に建っていたクックラクシナ駅逓の姿である。厳しい開拓の時代に、人々がここを拠点とし、モノと心を運んでいた。
その翌朝、まだ朝の冷気が残る時間帯に、再びこの地を訪れた。
「鹿追発祥の地」と刻まれた石碑と、それを囲む木立の影。その足元には、鹿追の町の歩みを静かに語る説明板が立っていた。
鹿追発祥の地とは何か


明治三十五年(1902年)、山田松次郎という人物が美蔓高台を経てこの地に入植したことが、鹿追の開拓のはじまりである。
彼に続いて、笹川、上然別、下鹿追といった地区に次々と入植者が集まり、開墾が進められた。
こうした開拓の流れを受け、この場所が「鹿追発祥の地」と定められたのである。


大正十年には音更村から分村し、鹿追村が誕生。さらに昭和三十四年には町制が施行され、現在の鹿追町となった。
場所には当時の開拓精神が静かに息づいている。
学校ができ、寺が建ち、人々の暮らしの音が広がっていった。今はただ静寂だけが残るが、その裏には先人たちの苦労と誇りが確かに存在している。
再現と記憶の建築
クックガルデンにある旧駅逓の建物は、鹿追の交通と交流の起点だった場所の再現である。


駅逓(えきてい)とは、明治から昭和初期にかけて設けられていた公共の宿泊・中継施設である。
旅人の休憩や宿泊、郵便・物資の輸送、さらには馬の交換といった役割を担い、北海道の広大な開拓地において移動と物流を支える重要な拠点となっていた。
とくに人里離れた地域では、駅逓の存在が人の往来を可能にし、開拓そのものを支える生命線でもあった。
数十キロおきに配置された「駅逓所(えきていしょ)」は、道なき道を行く者にとっての数少ない頼れる場所であり、今もその跡地には、かつての旅と営みの記憶が静かに残されている。
終わりに:風のなかの記憶
かつてこの場所に、風が吹き抜け、人が集まり、夢を描いた時代があった。
今は静かな風だけが残り、それでもその風は、確かに何かを伝えている。


“始まりの場所”というものには、いつも説明しきれない力がある。
ただ、訪れて、空を見上げるだけでいい。
この地に根を下ろした人たちの記憶が、ふと自分の背中を押してくれる。
鹿追発祥の地(クックガルデン)の基本情報
森のフクロウ川柳



拓く音
いまは静けき 鹿追路
そんな話もありますねん。
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