浜田城(別名亀山城):島根県浜田市
浜田城跡

大阪から山口県の唐戸市場まで車中泊をはさみながら下道のみで26時かけて移動した。
2024年11月2日、山口県下関の唐戸市場からアトレーワゴンで島根県の浜田市まで移動。
浜田市に泊まったので、翌日3日に浜田城跡を散策してきましたので、そのときの模様を紹介します。
国の戦略拠点
浜田城(はまだじょう)は、島根県浜田市に位置する山城で、江戸時代初期に築かれた城です。石見(現在の島根県西部)の要衝として、幕府による西国支配の一翼を担いました。
標高約67メートルの亀山に築かれたこの城は、山の地形を活かした防御力の高い構造を持ち、浜田藩の中心として機能しました。
浜田藩の藩庁としての役割
浜田城は、関ヶ原の戦い後に石見地方の支配を任された古田重治が築城を開始し、その後、松平氏(松井松平家)が藩主として治めました。
浜田藩は徳川幕府に忠誠を誓い、西国大名の動向を監視する重要な役割を果たしました。城の周囲には藩士の屋敷が立ち並び、浜田の城下町としての発展を促しました。
幕末の動乱と浜田城の焼失
幕末期、長州藩との戦い(第二次長州征伐)において、幕府軍の拠点であった浜田城は長州軍の標的となりました。
1866年(慶応2年)、長州藩の攻撃を受け、藩主・松平武聡は城を自焼し、浜田城は消失しました。
これにより、石見地方における幕府の影響力は失われていきました。
現在の浜田城跡と見どころ
浜田城は焼失後、再建されることはなく、現在は浜田城跡として城の石垣や曲輪(くるわ)の一部が残っています。
特に、城の中心部にあたる本丸跡や、堅牢な石垣は往時の面影を今に伝えています。
また、城跡は浜田市の公園として整備されており、春には桜が美しく咲き誇る名所としても知られています。
城山公園( 亀山城跡)

浜田城復元CGI (コンピューター・グラフィック・イメージ)
浜田護国神社正面左手の方向から見上げた復元図です。
山頂に構えられた本丸には天守の代用である高さ約14mの三重櫓がそびえ
その右手に本丸一ノ門と一般には多簡櫓(たもんやぐら)と呼ばれる六間長屋の屋根が見えます。
本丸の下には出丸の石垣と塀が見え、さらに右手には二ノ門が見えます。
復元=三浦正幸 CGI 製作=3kids 長尾美知子
(説明引用)

元和五年(1619年)吉田重治が初代藩主となり、その後、松平、本多、松平と17主、18代、248年間藩政が続いた。
亀山城跡で当時をしのぶ石垣が残っており、春の桜、秋の紅葉が美しい。
公園内には護国神社、侍屋敷門、木口小平像、島村抱月碑、大達茂雄像、俵孫一碑、、ノモンハン事件戦没者慰霊碑、母の像、NHK浜田放送局、秋葉神社がある。
(説明引用)


浜田城跡 (浜田市殿町)
標高67mの丘陵上に筆かれた平山城であり、北は 松原湾を介して日本海を望み、西南には城を囲むよ うに浜田川が流れている。海陸ともに交通の要地であった。
元和5年(1619)に伊勢松坂城主であった、吉田重治が大坂の陣の功によって5万5千余石でこの地に転封になり、浜田川河口部に城地を定めるとと もに城下町の範囲を定め、古くからあった町を整理して城下町の基礎を築いた。
翌年2月に築城に着工、 元和9年(1623)5月には城や城下町の工事を完了した。
元和の一国一城合(元和元年/1615) 以降に新城を築城した例は、この浜田城を含めても 明石城、福山城などわずかであり珍しい例である。
本丸は頂上部にあり、約60m×約50mの規模をもち、北西の隅には三重の天守が建てられた。
本丸から 南に向かって、城山の中腹に二の丸、山麓に三の丸が あり、周辺は石垣で固められている。
浜田城の城主は、古田家(2代)以降、松平周防守 家(5代)、本多家(3代)、松平周防守家(4代)、松平右近将監家(4代)とめまぐるしく替わった。
慶応 2年(1866)に第二次長州征伐で敗れたために、 松平武聡は退城し、浜田城は近世城郭としての歴史を終えた。
(説明引用)
浜田城と中ノ門と裏門

左側下方に見える石垣が中ノ門です。この門は手前の石垣上に長屋、奥の石垣上に塀を設け、その間には階下に門、階上に長屋をのせた櫓門がありました。
記録によれば「多門ノ事 三間二九間 舛形石垣高サ四間」とあり、その規模は堂々たるものです。緊急時には家老が詰める等、浜田城を象徴する重要な施設でした。
この門へはスローブ状の道が足元の斜面に沿う形で直線的に延びており、門の内側には番所が二棟と井戸がありました。
なお、この門を境に山側を二ノ丸、平地側を三ノ丸と呼び分けていました。裏門の石垣は正面駐車場へ延びる道横に見えます。
中ノ門と近接していますが、当時はその間に大竹藪が生い茂り、直接の行き来ができないようになっていました。
門の内側に番所(鯰番所とも呼ばれた)、左側の山斜面に塀を設け、それらの右側には塀をはさんで米蔵が建っていました。
(説明引用)
浜田県庁の門


浜田県庁の門は、元々津和野藩庁の門であり、明治3年に浜田県設置に伴い、翌年県庁舎として浜田郵便局の地に移された。
その後、浜田県が島根県に統合され、この門と建物は那賀郡役所や那賀地方事務所として使用された。
昭和41年に庁舎が移転するまで地方政治を見守り続け、昭和42年に島根県から浜田市へ譲渡され、現在の護国神社裏に移築された。歴史的価値があり、市民に親しまれている。
島村抱月先生の碑


島村抱月は、旧名「佐々山滝太郎」といい、明治四年浜田市に隣接する那賀郡金城町に生れる。
小卒後、浜田に出て、病院の薬局見習や裁判所の給仕をしながら独学に励む。当時、浜田裁判所の検事であった島村文耕にみとめられて上京し、島村家の養子となる。
東京専門学校文学部(現早稲田大学)に学び、イギリス、ドイツ に留学、帰国後、文学史上不滅の自然主義文芸理論を展開し自然主義文学運動の指導者として、また評論家、劇作家として活躍している。
大正二年、女優松井須磨子を擁して芸術座を創立、「人形の家」「復活」などの翻訳劇を演出、上演し、新劇の大衆化に貢献したのである。
「カチューシャ可愛や、別れのつらさ せめて淡雪、とけぬまに 神に願いを ララ かけましょか」
大正の始め、一世を風びしたこの「カチューシャの唄」は、「復活」の中で松井須磨子の歌ったものである。
また、この地には、明治27年の日清戦役でラッバを口にあてたまま息絶えた歩兵第二十一連隊出身の勇士木口小平の銅像ほか、昭和14年の「ノモハン事件」戦没者の慰霊碑が建立されている。
その両側には「浜田」が生んだ政治家、俵孫一、大達茂雄両氏の頌徳碑と胸像も建てられている。
孫一の弟、俵国一は玉鋼、日本刀の研究者であり、わが国近代鉄鋼業の生みの親として知られ、その顕彰の銅像は浜田市民会館前に建立されている。
(説明引用)
松高部隊:独立歩兵第518大隊記念碑

ノモンハン戦没者慰霊碑

勇士木口小平の銅像

明治27年の日清戦役でラッバを口にあてたまま息絶えた歩兵第二十一連隊出身の勇士木口小平の銅像
浜田護国神社

浜田護国神社

浜田護国神社

浜田護国神社の鳥居

浜田護国神社の鳥居
浜田藩追懐の碑(司馬遼太郎碑文)


浜田城と柿本人麻呂


浜田城は元和五年(1619)に伊勢国(三重県) 松坂から国替えとなった古田重治(初代浜田藩主)によって、元和六年(1620)から築城されました。
この築城にあたって、城地にあった幾つかの寺院が移転したようですが、神社はそのまま祀られ、幕末には稲荷社、厳島社、雁木(かりき)社、讃樹社、三柱神社、姫栖(ひめす)社が城内に鎮座していました。
これらの神社の中で、柿本人麻呂と関連するのが雁木社です。「御家譜附録」(松井家1786年)によれば、大鼓堂の下に雁木大明神という祠(ほこら)があり、人丸の祠とも山伏の塚とも伝えられていると記述されています。
また、「石州浜田城」(1760年代の様子を描いた絵図)には「大コ(太鼓堂)」 に接して「人丸」と記載されており、古くから雁木社に人丸(柿本人麻呂) が祀られていると考えられていたようです。
現在この神社は、この左側に鎮座する秋葉神社に合祀されています。
浜田城山は別名「亀山」とも呼ばれていますが、元々は「鴨山」と呼ばれていたのを、亀の縁起にちなんで築城時に改めたと言われています。
また、浜田城山の様囲を流れる浜田川も「石見軍記」(1594年)には「石川」と記述されています。
そのため、
柿本朝臣人麻呂 石見国に在りて臨死らむとする時自ら傷みて作る歌一首
「鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ」
柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時 妻依羅娘子(よさみのおとめ)の作る歌二首
「今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも
直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ」
の歌に詠まれる「鴨山」と「石川」に比定され、浜田城山が柿本人麻呂終焉の地であるとの説が古くから唱えられています。
(説明引用)
秋葉神社

秋葉神社
大達茂雄像

大達茂雄像
大達茂雄(1892年1月5日生まれ、1955年9月25日没)は、日本の内務官僚・政治家です。
東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省し、1932年に福井県知事、1939年に内務次官を務めました。
太平洋戦争中は昭南特別市(現在のシンガポール)市長や初代東京都長官を歴任し、1944年には小磯内閣で内務大臣に就任しました。
戦後、A級戦犯容疑で拘留されましたが、後に釈放され、1953年に参議院議員に当選。第5次吉田内閣では文部大臣として教育二法の成立に尽力しました。
俵孫一先生頌徳碑

俵孫一(1869-1944)は、島根県浜田市出身の官僚・政治家。
東京大学法学部卒業後、内務官僚として大韓帝国の学部次官や朝鮮総督府土地調査局副総裁、三重県・宮城県知事、北海道庁長官を歴任。
1924年に衆議院議員となり、通算6期当選。民政党幹事長や商工大臣を務めました。
大政翼賛会の成立時には、単一政党の危険性を指摘。1942年の翼賛選挙で落選し、1944年に死去。墓所は青山霊園。
浜田城跡へのアクセス情報
- 所在地: 島根県浜田市殿町
- 最寄り駅: JR山陰本線 浜田駅 から徒歩約15分
- 見学可能時間: 24時間(自由散策可能)
- 入場料: 無料
現在も歴史を感じられる浜田城跡。石見地方の歴史を巡る旅の一環として、ぜひ訪れてみてください。
「浜田城」歴史の散歩道(浜田市公式サイト)