
会津へ向かう途中に出会った新湊大橋の話です。美しい眺望の裏には、奈良時代から続く海の記憶、北前船が運んだ繁栄、昭和の分断と平成の再生の物語が秘められていました。
思いがけない出会いが始まり
2025年8月、会津若松にいる先輩から連絡があった。地元の神社の宮司さんから「境内をキャンプ場として活用できないか」という相談を受けたので、知恵を貸してほしいとのこと。面白そうな話やな、と二つ返事で引き受けた。
もちろん旅のスタイルは下道、地道での移動である。大阪から会津若松へは日本海側ルートを選択。初日は富山の片貝山ノ守キャンプ場を予約していたので、のんびりと富山湾沿いを走ることにした。
そして道中、突然目の前に現れたのがこの立派な橋だった。新湊大橋。
「なんじゃこりゃ」から始まった歴史探訪


全長600メートル、海面からの高さ47メートルという威容に、思わず「なんじゃこりゃ」とつぶやいてしまった。2012年の開通以来、この斜張橋は地域のシンボルとなっているのだが、調べてみると、その足元に眠る歴史は想像以上に深く、劇的だった。
実はこの橋が架かる場所は、1967年の港口開削によって45年間も分断され続けた、地域住民の悲願が込められた場所なのである。ただの立派な橋やと思ってたら、とんでもない話やった。
万葉の昔から続く海の記憶
時を遡ること1300年。奈良時代の越中国守大伴家持は、この地を「奈呉の海」「奈呉の浦」と万葉集に詠んだ。当時ここは「放生津潟」と呼ばれる美しい潟湖で、周囲約6キロメートルの穏やかな水面が広がっていた。
なるほど、この地は単なる風光明媚な場所ではなかった。室町時代の1493年、政変を避けた室町幕府10代将軍足利義材が、なんと5年間もここに滞在し「越中公方」として幕府政権を樹立したのである。
現在の新湊大橋の下に、かつて日本の政治中枢があったとは、まったくもって驚くべき歴史である。
橋の上から富山湾を見渡しながら、「ここで将軍が政治してたんかいな」と思うと、なんだか不思議な気分になった。
北前船が運んだ繁栄の記憶
江戸時代に入ると、この地は加賀藩領となり、北前船の黄金時代を迎える。放生津の船主たちは大阪へ年貢米を運び、帰りには木綿、古着、塩、鉄を積んで戻る西廻り航路の要衝として活躍した。
特に興味深いのは綿屋家の物語である。最初は漁具用の藁を商う小さな商売から始まった彼らが、やがて加賀藩から船舶所有の許可を得て年貢米輸送業へと発展し、北前船航路の基盤を築いた。現在の新湊大橋が架かる水域を、当時は帆を膨らませた北前船が行き交っていたのだ。
橋の下を見ると、確かに大型船が通れそうな幅がある。昔の船乗りたちも、この景色を違う角度から眺めていたのだろう。
明治の激変と漁業王国への転身


明治時代、北前船時代の終焉とともに、この地は劇的な転換を遂げる。新湊町と改称された町は、今度は漁業の近代化で飛躍的な発展を遂げた。
ワラ網から麻の細目糸網への技術革新により定置網は大型化し、明治41年には新網導入による空前の大漁を記録。さらに企業家たちは北洋漁業に進出し、オホーツク海やカムチャッカ沿岸でのタラ・サケ・マス漁業、北海道でのニシン漁やイカ漁で大きな成功を収めた。
時代の変化に合わせて生き抜く逞しさは、今でも地域の誇りなのかもしれない。
昭和の悲劇 – 分断された故郷
そして昭和の時代、この地域に大きな試練が訪れる。昭和36年、商工業発展を目指した富山県は富山新港建設に着手。昭和42年11月、港口部の開削により道路と富山地方鉄道射水線が完全に分断された。
いやはや、それまで徒歩や自転車で数分で行き来できた隣町が、突然海で隔てられてしまったのである。東岸の堀岡地区と西岸の越の潟地区の住民は、大幅な迂回や県営渡船での移動を強いられることになった。
橋を歩きながら対岸を見ると、確かに泳いで渡れそうな距離やのに、それができないもどかしさは想像に難くない。
30年間の粘り強い闘い
分断から15年後の昭和57年、ついに住民と旧新湊市が立ち上がる。「富山新港港口連絡橋建設促進期成同盟会」を設立し、30年にわたって連絡橋建設を粘り強く要望し続けた。
この30年間の住民の思いを想像すると胸が熱くなる。隣の家族や友人に会うために大きく迂回しなければならない不便さ、分断された故郷への複雑な思い。それでも諦めることなく、要望を続けたのである。
総工費494億円の希望の架け橋
平成14年11月、ついに着工された新湊大橋。総工費約494億円という巨額の投資は、単なるインフラ整備ではなく、分断された地域の心を結ぶ「希望の架け橋」であった。
2012年9月23日の開通時、どれほど多くの住民が感涙したことだろうか。45年間の分断がついに終わりを告げた瞬間であった。
実際に橋を渡ってみると、その高さと長さに改めて驚く。これだけの橋を架けるのに、どれだけの技術と労力が必要だったか。そして何より、どれだけの想いが込められていたか。


現代に蘇る海の記憶
現在の新湊大橋からの眺望は息を呑むほど美しく、晴れた日には立山連峰を一望できる。橋の下には美しい帆船も停泊し、かつての海運の記憶を現代に伝えている。
この橋は単なる交通インフラではない。万葉の昔から続く海の記憶、北前船が運んだ繁栄、漁業王国としての栄光、そして分断と再生の物語すべてが込められた、まさに現代の「架け橋」なのである。
会津への旅路で偶然出会った橋だったが、こんなにも深い歴史があるとは思わなかった。旅の醍醐味は、こういう予期せぬ発見にあるのかもしれない。
新湊大橋を後にして片貝山ノ守キャンプ場に向かいながら、足元に流れていた海に1300年の歴史が刻まれていることを改めて実感した。明日は会津で神社キャンプ場の話を聞くが、きっとそこにも深い歴史があるのだろう。
新湊大橋データ
- 正式名称:新湊大橋(臨港道路富山新港東西線)
- 全長:3.6km(東西アプローチ部含む)、主橋梁部600m
- 主塔高さ:127m(海面より)
- 総工費:約494億円
- 開通:2012年9月23日(車道部)、2013年6月16日(歩行者道)